演出家 岡村俊一、紀伊國屋ホール 鈴木由美子インタビュー

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現在、本編中で多家良と友仁が取り組んでいる舞台『初級革命講座 飛龍伝』。実は『ダブル』という作品自体、そもそも野田先生が『飛龍伝』の舞台を見たことから着想された物語でした。

そこで今回は、90年代からつかこうへい*1作品の演出を手がけ、つか氏本人とも親交の深かった演出家・岡村俊一さんと、つか作品とは切っても切れない関係の紀伊國屋ホールで長く舞台のお仕事をされてきた鈴木由美子さんにも同席していただき、つかこうへいという人物や作品についてお話を伺いました。

取材 / 野田彩子 構成 / 岩根彰子

つかこうへいとの出会い

野田:お二人がつかさんと知り合われたきっかけや、初めて会ったときの印象はどういったものでしたか?

鈴木:私はすでに紀伊國屋ホールに勤めていたので、つかさんが初めてここに進出した時に知り合いました。たしか76年頃でしたね。岸田戯曲賞受賞が74年ですから、まだ賞をもらったばかりの頃。すっごく強烈な人だなっていうのが最初の印象です(笑)。押し出しが強いというか、見るからに才能がある人だなって気がしましたね。天才肌という感じで、凄いことをやってくれる人なんじゃないかなと思いました。

岡村:いまどき、初対面の人にいきなり威張ったりする人っていないじゃないですか。でもつかさんは、いきなり威張ってる人(笑)。そして、あの人の場合はいろんな人と交流するんじゃなくて、だいたい相手を巻き込んで行くんですよ。「あいつはこれが得意だろう」とか「あいつにはこれを任せよう」というように、一人一人を巻き込んで行くのが上手なんです。だから、これはつかさんと親しかった人全員が言うことなんですけど、「俺とつかさんの関係は特別だったよ」っていう人がとにかく多いんです。

鈴木:人の心を動かすのが上手い人でしたね。するっと懐に入ってくるというか、それがグッときちゃうんですよ。そうすると「この人のためならなんでもやろう」って気持ちにさせられる。

野田:河出書房のムックで、いろんな方がつかさんとの関係を語られていて、「皆さん、それぞれ特殊な関係をお持ちだったんだな」という印象でしたが、そういうふうに他人に思わせられる人だったんですね。

岡村:そのくらい個々と対峙する人でしたね。対人関係の作り方が特殊だったので、関わった人間でも凄く傾倒する人と、そうでもない人と色々なパターンはあるんだけれど。一方で、すごく威張っているのに世話好きな面もあって、「ドラマのプロデューサー来たぞ、お前ちょっと来い」って若い役者を呼んで「こいつ出してやってくださいよ」みたいなことをさらっと言えちゃう人でもありました。

鈴木:自分だけが売れるんじゃなくて、役者さんたちも売れて欲しいと思っていたというか、なんとか売りこもうとしていましたね。稽古が厳しくても、芝居創りが厳しくても、皆がついて行くのはそういうところなんじゃないでしょうか。凄く人間味があるというか。ものすごいパワハラ的なこともするんだけど、中身はあったかい人でしたね。

岡村:僕はもうすぐ60歳なんですが、世代的に今70歳くらいの人たち、つかさんが生きてれば今73歳なので、そのちょっと下の人たちはもっと強烈な目にあってますね。いつの間にか結婚させられたりとか、ありましたよね。

鈴木:好きなのよね、そういうのが。実はうちもお互いにつかさんの仕事をしていたのが縁で結婚したんです。つかさん、私には何も言いませんでしたが、主人の方には「お前、紀伊國屋の人と付き合ってるんだって?」って。根掘り葉掘り聞かれたそうですよ。それで、まだ結婚する前に私が彼の部屋に通っていたころ、「いやあ、家へ帰ると部屋に灯りがついていて、それがいいんですよ」って主人がつかさんに話したら、それが芝居の台詞になってたって(笑)。

岡村:まわりで起きてる面白いと思ったことは、必ずセリフに出ますからね。だから、芝居を見て「俺の話だ」っていう人もいっぱいいるんですよ。

つかこうへい独自の「口立て」演出

野田:つかさんといえば、芝居の練習中に役者の演技を見てどんどん台詞を変えていく「口立て」という演出法が有名ですが、その際、出演している方の実際のエピソードや言葉が採用されていたという話もありますね。

岡村:つかさんの作劇の「口立て」って、そこで伝えられる言葉はリアルなんだけど、むしろ心情の波みたいなところを押さえているんです。あくまでもたとえ話ですが、ある役者に身体の弱い恋人がいるとすると「だから心情的にお前にはわかるだろう」という感じで劇中で彼が演じる人物の嫁が死ぬエピソードを作っていったりするんです。言葉のリアルよりも心情のリアルを追いかけて、こういう設定はこいつに効くだろうっていう部分をぶつけていく。いわば心象の角度を寄せていくというのかな。

野田:役者が共感できそうなエピソードを見つけていくという感じですか。

岡村:そうですね。ただ、役者ができなければ、さっさと変えるんですよ。こいつにはこのセリフは合わんと思ったら、「あれ、いいシーンだったのに」と思っても、残酷なくらいにバッサリとカット。反対に伸びる時は元々は3行くらいしかなかったセリフが、終わる頃には4〜5ページくらいになってるっていう。

野田:本番中にも台詞をどんどん変えていかれたそうですね。

岡村:ここはいけるぞ、と思った場面は伸びるんですよ。お芝居って、やっているうちに作家の第一次要素と役者の第二次要素が重なって心象の波みたいなものが生まれてくるんですが、本番になるとさらにそこに観客の波、観客が芝居を受け入れてるなっていう空気が第三次要素として重なることがある。つかさんはそれを見逃さず、そういう波を感じるとさらにそこを伸ばすんです。だって本番中も舞台袖にいるんですから。客席で見るのなんてゲネだけで、あとは常にずっと袖に立ってるんですよ、大きい灰皿を抱えてタバコを吸いながら舞台を見ている。はけてきた役者がぶつかるから危ないっていうのに(笑)。で、今日はここが受けたなって箇所があると、「ちょっとあそこを押していけ」って役者に耳打ちするんです。

野田:最近のお芝居では役者のアドリブパートというのはあっても、日々、そこまで演出を変えるっていうのはなかなかないですよね。ちなみに岡村さんが演出されているつかこうへい作品でも、日替わりで誰が出てくるのかわからない時間があったりしますが、あそこはどういう風に作ってらっしゃるんでしょう。

岡村:つかさんは役者を使って舞台上で即興的なものを巻き起こすのが天才的に巧かったんですが、僕はあの技術までには手が届かないので、アドリブに見えるように仕組んじゃっています。役者に「あそこに誰が座ってるから、このきっかけでこういうことをやっちゃって、最終的にはお前がここで戻せよ」みたいなことを伝えておいて、即興に近く見えることをやってるだけなんです。あの芸当は真似できないですよ。舞台袖で1ページも2ページもあるセリフを突然、耳元で囁くんですから。

野田:それに対応できる役者さんたちもすごいですよね。

岡村:まあ、大体の役者たちが、途中で忘れて引っ込んできたりしてましたけどね(笑)。

紀伊國屋ホールに鳩を飛ばす

野田:紀伊國屋ホールで鳩を飛ばそうとしたっていう話も有名ですね。

岡村:そうそう。鳩は明かりに向かって飛ぶ習性があるから、客席のうしろ側に仕込んでおいて、舞台にパッと明かりをつけたらこっちに向かって飛ぶだろうって。ゲネでは一回、うまくいったんですって。でも、客が入ったらやっぱり鳩がいうこと聞かなくなって、途中で飛んじゃうわフンも落ちるわで、もうやめた! となったらしいですね。つかさんて舞台装置や衣装は大嫌いで、物語の説明には絶対に使わなかったんですよ。わざわざそのために作って、役者がそれを頼りにするものが嫌いなんです。

野田:でも鳩はよかったと。

岡村:劇場にもともとあるものを利用したり、人間の体でやることは良い、という方針でしたね。これは本人がよく言ってたことなんですけど、人間の目の力ってどんなカメラよりも性能がいいから、照明を顔にさえ当てておけば一番後ろからでもその顔は見える、と。そういうことを信じている人でした。だから絶対に他に明るい部分ができないように、というのが演出の基準でしたね。スタッフが、いくらなんでも舞台ががらんどうすぎるからと言って何かを作ったりしても、いらない、いらないって、何百万円かかった装置でも捨ててましたよ。その割にね、時々「車買ってこい」とかいうんですけどね(笑)。役者が車に乗って舞台に登場してきたらカッコいいだろうと。

野田:車は大道具とか舞台装置とかとは違う扱いなんですね(笑)

『初級革命講座 飛龍伝』を漫画で描きたかった

野田:わたしが初めて観たつかこうへい作品は、2015年に紀伊國屋ホールで上演された「つかこうへいTriple impact」の『初級革命講座 飛龍伝』でした。正直、観に行った動機は推しの役者が急遽、出演することになったからだったんですが、舞台そのものが本当に素晴らしくて。帰りに劇場の階段を降りながら夢心地だったんです。それは滅多にない経験で、それ以来ずっと『初級革命講座 飛龍伝』を漫画で描く機会を狙っていて、今回ようやく実現しました。

岡村:それは嬉しいですね。最初につかさんが『飛龍伝』を上演したのは1973年、小さな高田馬場のアトリエみたいなところだったんですよね。時代背景的には学生運動の波が少し引き始めた頃で、だから左翼学生たちが日和っていく姿を罵倒するというのが受けた。最初のころはそういう芝居だったんだけど、80年に紀伊國屋ホールで上演されたときに、そこに少しラブストーリーの要素みたいなものが加わったんです。

野田:作品について色々調べていく中で、脚本が最初に書かれたときには山崎というキャラクターに機動隊員というバックボーンはなくて、学生運動に挫折した熊田のほうがメインだったのが、徐々に山崎が元機動隊員であるとか、機動隊員なのに革命の闘士である小夜子と知り合って恋をするといった要素が足されていったという話を読みました。つまり一番最初は熊田留吉が主人公で、そこから段々と山崎のキャラクターが深くなっていき、さらに小夜子がメインになっていったということでしょうか。さらに小夜子は『飛龍伝 '90』で、名前を変えて神林美智子になりましたけれど、どういう経緯でそうなったんでしょうか。

岡村:それは難しいですね、つかさんの頭の中のことだから。ただ、実はつかさんのなかでは『飛龍伝』は80年で一回閉じてたんですよ。というのも『飛龍伝』の舞台にとってはタイトルに「0」がつくのが重要なんです。日米安保は60年に締結されて、その後、10年ごとに見直すという文言が入っていたので60年、70年と安保闘争が起きたわけですが、じゃあ次の80年、今お前らは何をやってるんだ、っていうところから生まれたのが『飛龍伝 '80』でした。その後、僕がひょんなことからつかさんに呼ばれて、「次に俺が何をやるか決めろ」と言われたんです。そこで「90年という節目、新たな『飛龍伝 '90』をやりましょう!」と言ったら乗ってくださった。

野田:90年当時、岡村さんはセゾン劇場のプロデューサーをやってらしたんですよね。

岡村:そうなんです。そこで80年と比べてもっと何もない時代、今度は左翼を罵倒するのではなくて、愛の話に完全に移行してしまえということになったわけです。ですから、実際には小夜子が神林美智子に変わった、という訳ではなくて、つかさんの中では神林美智子という新しいストーリーが生まれたんだと思います。それからもう30年も経ってしまったわけですね。ただ、昨年も『飛龍伝 2020』をやったんですが、まだ意外にも現代の観客に響くんですよね、ありがたいことに。

争いのない時代に、争いを再び

岡村:『飛龍伝』って、昔は本当に怖い芝居だったんですよ。下火だったとはいえ、まだ怖い左翼がたくさんいたし、学内でバリケードを張っている大学だって、まだたくさんあった。そんななか、新宿の街中で左翼を小バカにするような芝居をやっていたんですから。当時は「舞台が終わったら客より先に帰れ、あぶねえから」と言われてたらしいですよ。でないと「刺されるぞ」って(笑)。だから当時もカーテンコールはするなと言われてたんです、飛龍伝は危ないから。ラストシーンで「熊田が見えてきたらすぐ幕をおろせ!」と。

野田:つかこうへい事務所に『初級革命講座 飛龍伝』の漫画内での利用許諾をいただいた際にも、内容が誤解されるような使い方だけはしないでください、ということは言われました。

岡村:抜粋されるとね、間違った意図で伝わる言葉が多いんですよ。芝居ではあえて攻撃力のある言葉を選んでいるので、その最終的な正しさのところまで到達しないと、ただの悪口になってしまうから。つか作品の中で、熊田っていうのはだいたい平田(満)さんが演じていた役なんですよ。登場人物には戯画化された人物と、平常な人物がいる。いわばボケとツッコミみたいなものですよね、その二つが存在して喜劇みたいなものを作っているとしたら、平田さんが演じる役は常識人の位置にいる。常識の側に平田さんが必ずいて、その対極に、ものすごく突拍子も無いことを言いだす怪人がいる。

野田:『熱海殺人事件』の熊田もそうですね、

岡村:そうです。他にもいろんな作品に熊田が出てくるんですが、彼は必ず常識人で、「異常」なことに対して「正当」なことをいう奴なんです。でも、その「正当」なことをいうやつが、実は結構間違っているっていうのが、つか作品の面白いところなんですよ。作劇において、つかさんがずっと描いてきたのは、「みんなが思っている常識っていうのが、本当に常識なのか? みんなが思っている狂気っていうのは、本当にただの狂気なのか?」という対比。そしてそこには、相容れないものを相容れさせるためにはどうすればいいか、という巨大なテーマがあったんだと思います。「根本的には相容れないけど、こういう方法をとれば俺たちコミュニケーションが取れるんじゃないの?」という、ぎりぎりの選択を演者たちと観客にさせてたっていう印象ですかね。

野田:それが、今も観客に響く理由のひとつかもしれませんね。

岡村:もうひとつ『飛龍伝』が面白いのは、争いのない時代に「争いを再び」と言ってるところ。お前らの正しいことだったら、俺たちはいつでも受けて立つ、と。それを「争ってはいけない」という時代にやっているのが、かっこいいんだと思うんです。だからラストシーンで一瞬、熊田が見えて消えていくだけなんですけど、「やっぱり帰ってくるよなあいつは」って思える。そういうところが『飛龍伝』の魅力じゃないかと思いますね。

つか作品における一人二役

野田:『初級革命講座 飛龍伝』では、一人の役者さんが熊田の義理・娘のアイ子と山崎の恋人・小夜子と二役を演じています。

岡村:そういう設定は初期のつか作品には多くて、『熱海殺人事件』の水野朋子と山口アイコもそうですよね。もちろん劇団の人数が少なかったせいでもあるんだけれど、別人を同じ役者が演じることで一人の人間に集約されていく。そんなふうに人間の力だけで何かを変えていったり、セリフの力だけで時間軸を編集してしまう。それがつかさんの戯曲の特徴なんです。さっきまでこの時間軸にいたのが、別の時間軸へバッと飛ぶっていう描き方って、結構難しいんですよ。会話しているのに、あ、もう半年経ったんだ、とか1年経ったんだ、みたいなね。

野田:私が『初級〜』でとても印象的だったのが、アイ子が熊田の家から出てきて、偶然、山崎とすれ違うときに、不思議な雰囲気でお互い会釈をして通り過ぎるシーンです。あの場ではアイ子と山崎なのに、見ている側からすれば小夜子も演じている役者なので、すごく不思議な空気が醸しだされていた。そのシーンがすごく好きで、そこに、この一人二役の意味があるのかなと思っていたんです。

岡村:それをどうやって思いついたかわからないんですけど、多分、やりながら「この方がいいんだよ」とかって作っちゃった感じなんじゃないかな。

野田:確かに文字で戯曲を書いているときには思いつかないことかもしれない、と感じました。その生っぽさというか、観客が見ている状態で、なんとなく「そういうものか」と受け取れてしまう、感覚の共有の仕方が巧いのかな、という印象を受けました。

俳優が一番格好よく見えるのは、正しい選択をした瞬間

岡村:これは僕がここ10年ほど、つかさんが亡くなった後に仕事を積み重ねてきた中で見つけた答えに近いことだと思うんですけど、俳優がどういうときに一番格好よく見えるかと言うと、そのキャラクターが一番正しい選択をした瞬間なんですよ。それは『半沢直樹』だろうが『鬼滅の刃』だろうが、どんなお話でも一緒。そして、正しい選択をした瞬間を際立たせるためには、そこまでにいろんな間違いをしでかさなければいけないんです。

野田:最終的な正しさというか、キャラクターの持っている誠実さみたいな部分を強調するために、間違いが必要だと。

岡村:そうです。ただし俳優にとってその間違いのしでかし方って難しくて、そういう部分が観客に受けたりすると、ついそっちに心がなびいちゃったりするんです。でも、そうするとそれはただのつまらないギャグになってしまう。芯に正しさを持ったまま奇怪な行動の方に手足を伸ばしていくからこそ、最後にそれらがある誠実さみたいなところに向かって集約されていく。それがつかさんの作劇法というか、戯曲の書き方、言葉を変えればひねくれ方の最大の特徴だと思います。

野田:岡村さんは2020年12月、最新の『熱海殺人事件 ラストレジェンド』を演出されていますが、そういうニュアンスを伝えるのって難しいですか?

岡村:つかさんが本を書いた時点での本意みたいなもの、「こことここだけは絶対にこういうつもりでいろよ」っていう部分があるんですよ。自分のなかで「そこを間違ったらダメ」と決めているというか、「ここは台詞ではこう言っているけど、絶対にこういうつもりで進行しないと、つかこうへいの芝居にならず、ただのコントになってしまう」という部分がある。もちろんそれは『飛龍伝』にもあります。これは皆さんご存知の話ですが、つかさんが在日として日本で生きてきたことに起因する感情――つかさんって国籍のことはそんなに気にしてないというふりをしていたけど、根っこのところにはその感情があるから、その感情が正しく伝わらないものは間違っている。「つかこうへいは差別感情を助長するために、この差別的な芝居を書いたわけじゃない」ということだけはきちんと伝わるように、常に気にかけていますね。

若い世代にどうつないでいくか

野田:私は87年生まれで現在33才なんですが、学生運動も安保闘争も、全く関わっていない世代です。そういう視点から見る『飛龍伝』と、自分の同級生や友達が実際に活動に参加していた人たちが見るのとでは、かなり受け取り方が違ってしまっているんだろうなと思うんですが、この時代に『飛龍伝』を再演する際に、何か感じることはありますか? そもそも役者の方々が当時のことを知らないわけですよね。

岡村:全ての役者たちがゼロからお勉強ですね。だって90年の段階で、ある俳優が、つかさんが「遥かパレスチナの地に…」と言った台詞を、「遥かマレーシアの地に」って言い間違えましたからね。その瞬間につかさんは「バカ! おまえはどこへ飛んでるんだ!」って怒鳴ってましたけど。マレーシアに飛んで革命はせんだろうって(笑)。でも、もう日本赤軍とパレスチナの関係なんて、皆が知ってることではないんですよね。ただ今は少し角度は違うけれど香港の問題などがあるので、市民や若者たちが自分たちの生きる環境をかけて争う姿というのが、世界にはまだあるということは理解しているんじゃないかなと思います。とはいえ今の人たちに、石を投げたら皆が憧れるというような感覚を伝えるのは非常に難しい。そもそも今の日本では石を投げるっていうこと自体が、暴力行為でありえないわけだし。さらに男の感情として「女を奪い合う」っていう感覚もあまりないんですよね。むしろ、そんな揉め事なんてごめんだね、っていう感覚で生きている人が多い。

野田:そういう感覚や、先ほどお話しされていた、ここだけは間違ってはいけないポイントというものを役者さんに伝えたときに、向こうもちゃんと理解してるなという手応えはありますか?

岡村:こればっかりは、わかるやつとわからないやつがいますね。演じているキャラクターの方角を間違えない役者っていうのはいっぱいいるんです。ただ、ある特殊な芝居の中では、役者本人の感情と見ている側の感情がちょっとずれていくことがあるんです。それを「主観ずれ」っていうんですが、観客って自分が見ている物語の語り手は誰か、ということを自然に理解して見ているんですよ。たとえばそれが三人称で語られていたとしても、観客の心の中にはある一人称が生まれて、そこを走り始めるんです。その時、その一人称から見た正しさって、俳優の持つリアリティの領域じゃなくなるんですよ。だから時々、俳優が「(自分の生理的には)こうなりません」っていうことがあるんだけど、それに対しては「お前はならなくても、客がなるから構わない」っていうのが僕の答えなんです。そこをちゃんとしておかないと、役者の生理はうまくいっても、物語の生理がつかなくなるんです。

つか作品を「継ぐ」のは誰か

野田:岡村さんはつかさんの死後も、つかこうへい作品を演出していらっしゃいます。それは今後もつか作品を守る、という意識で続けていかれるんでしょうか?

岡村:これが難しい話でね。本当は、とっとと誰かに代わって欲しいんですよ。さっきお話ししたように「こことここだけは押さえておいてね」という重要なポイントだけ伝わっていれば、あとは少々ブレたっていいんです。ただ、そこがどうしてそうあるべきかということが伝わりにくかったり、いろんなことを考えないとそこへたどり着けないこともある。実は演出家や役者といった身近な人間は、身近な部分の納得の継承にこだわりすぎて、正しく受け取るのが難しいんじゃないかとも思うんです。だから僕は、それこそ野田先生みたいに客席から継承者が生まれて来るかもしれないと思っています。

野田:客席から、ですか。

岡村:我々とは全く関係のない、ただの観客だった人が引き継いだ方が、正解が出るのかもしれないと思うんです。そういう人の方が、僕らが考えていることの何倍も考えていたり、ストーリーのキーになるポイントをちゃんと掴んでいるかもしれない。いわば「オタク」みたいな奴が重要で、そっちの方がエッセンスを的確に掴めるような気がしていますね。だから世代を超えて、それこそ漫画という媒体だったり、どこかの大学の劇団が見事に核心を捉えて、突然の継承をしてくれるかもしれないと僕は信じているんです。

野田:『ダブル』の3巻以降に、つかこうへい作品を演出していた架空の演出家の妻で、夫の死後、彼がやっていた演出をそのまま再現し続けているという女性キャラクターが登場するんですが、今伺ったお話を考えると、本当の意味での継承というのは、演出をそのまま受け継ぐことではないと。むしろ外からの視線で残っていくものがあるかもしれないということですね。

岡村:先ほど、脚本家と役者の要素が重なった波に、観客のそれが重なって新しい波が生まれることがあるという話をしましたが、そういう空気って観客が最も強烈に覚えてるんですよね。ひょっとしたら舞台のことは演出家よりも観客の方がよく知っていたりするかもしれない。そういう、客席を信じる感覚というのはつかさんも大事にしていたことで、だからこそ、そこから優れた継承者が生まれて来るんじゃないかなと思うんですよ。

野田:客席からの視線というのは、『ダブル』にはほとんどない観点だったので、新鮮です。

岡村:舞台って、まったく無責任な書生みたいやつとか、ただ照明を当ててるバイトさんとかが一番「あそこ面白いっすね」と、核心をついたことをいったりするんです。

鈴木:つかさんもそういうスタッフの人たちの声を大切にしてましたよね。

野田:客席やスタッフの方が気づきやすいというのは、演出の型をたどるだけではわからないことが結構あるということでしょうか。

岡村:そうですね。演出家と役者の頭だけでは考えつかないことを観客の頭が、紀伊國屋ホールの客席で400の頭が考えてくれている。その400の頭脳が渦巻いたときに、またとんでもないシーンが生まれてくるみたいなことがあるのかもしれません。

鈴木:私、今日のお話を聞いていて、野田先生がつか作品をそこまで深くご覧になってくださっていたんだなってすごく感激しました。ずっと関わってきた人間としてはこんなに嬉しいことはないですね。

野田:こちらこそ、漫画で『飛龍伝』を扱わせていただけることになったとき、本当にできるのかなという不安な気持ちと同時に、漫画の中で『飛龍伝』というお芝居をやることができるのが本当に嬉しかったんです。そのうえ、こんな場まで設けていただいて、本当にありがとうございました。


構成/岩根彰子

フリーランスライター。インタビューを中心にテレビや映画などに関する原稿を書いたり、書籍の編集を手伝ったりしています。レビューサイトも細々と運営中。 review103.com

公演情報
岡村俊一最新プロデュース作品

新装紀伊國屋ホールこけら落とし公演
第一弾
「新・熱海殺人事件」
作:つかこうへい 演出:中江功(フジテレビジョン)
出演:荒井敦史/多和田任益/能條愛未・向井地美音(AKB48)/三浦海里・松村龍之介/愛原実花
2021年6月10日(木)~21日(月)

第二弾
「改竄・熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン」
作:つかこうへい 演出:中屋敷法仁
出演: 多和田任益 菊池修司 兒玉 遥 鳥越裕貴
2021 年 6 月 24 日(木)〜 27 日(日)

http://www.rup.co.jp/shin-atami_2021.html

『ダブル』第4巻好評発売中!

*1:つかこうへいとは?
つかこうへい
1948年4月、福岡県生まれ。慶應大学文学部フランス哲学科中退。劇作家、演出家、小説家。
大学在学中に演劇活動を開始、1970年~80年初頭にかけて若者の熱狂的な支持を得、いわゆる「つかブーム」を巻き起こし、多くの人気俳優を輩出した。
一時執筆に専念したが、演劇活動再開後は、「北区つかこうへい劇団」の創設、プロデュース公演において数々の俳優や女優の新境地を開くなど、再び精力的な活動を続けた。
作品は小説、演劇のみならず、多くの映画原作ともなっている。
2010年7月、逝去。